清正公略伝
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■加藤清正公筆
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加藤清正公の父清忠は、美濃の大名斉藤山城守道三に仕えていたが、道三の嫡子義竜が反乱したので、母とともに尾張にのがれ、愛智郡中村に住んだ。 清忠は中村へ赴く途中足をいためたため、村の鍛冶屋清兵衛について鍛冶職を習うことになった。 この清兵衛の末娘に伊都女というのがいて、清忠と結ばれることになった。 清正公は、この清忠を父とし伊都女を母として、永禄五年(1562年)六月二十四日に誕生した。
清正公は幼名を夜叉若といった。当時海部郡津島に鍛冶屋五郎助という人がいた。この五郎助の妻は太閤秀吉の妻ねねの姉であった。 杉原助左衛門定利の娘だが、清兵衛の養女となり、五郎助の妻となった。従って、伊都女にとっては義妹にあたる。五郎助宅に同居した伊都女は清正公を近くの妙延寺住職につけて経書、仏法、書道をならわせた。 この住職は第九世の円享院日順大徳といい、清正公の人間形成に少なからぬ影響をあたえている。
清正公の母と豊太閤の母とが従姉妹どうしであったので、九才のおり秀吉の膝下にはいることになった。 天正三年(1575年)清正公は十四才のとき、長篠の戦に初陣、その翌年元服、夜叉若から名を虎之助清正と改め、百七十石を与えられた。
こうして正式に秀吉旗下の侍になったわけだが、以来軍学を折野弥次郎右衛門頼広に、兵法剣術を塚原小才次に、そして槍術を宝蔵院胤栄に学んだ。 天正十年、秀吉は備中国冠山城を攻めたが、清正公はこの戦の先陣の大将として出陣、馬印に日頃から信仰していた日蓮宗の題目である「南無妙法蓮華経」の七文字を書いた旗をたてた。
この年、本能寺の変がおき兵をかえした秀吉とともに山崎に戦い、明智光秀の軍を破った。 翌天正十一年賤ヶ岳の戦に七本槍の一人として奮戦、その後も四国征伐も従った。
天正十六年(1588年)肥後を封ぜられていた佐々成政が秀吉の怒りにふれ切腹させられたあと、その領地が清正公に与えられた。 清正公ときに二十七才、家臣三百、二十五万石の領主となった。翌年天草の乱の小西行長をたすけに更に翌年には小田原に北条氏を破り天下は統一された。
慶長十五年(1610年)、名古屋城築城にあたり、その石垣工事を単独にてなし、翌十六年、二条城における秀頼、家康の会見にあたっては秀頼の後見という大役をはたした。 清正公はそれからしばらく大阪に滞在し、海路肥後に帰国したが、船中で発病、熊本城に帰ったあと高熱のうちにこの世を去った。時に慶長十六年六月二十四日、享年五十であった。