清正公の紋
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■加藤清正公のご紋「蛇の目」
加藤清正公が「蛇の目」と「桔梗」との二つの紋を併用するようになったのは、天正十六年五月、肥後半国に封ぜられてからである。豊太閤秀吉は清正公を呼び、肥後半国と讃岐の両国のうちから一つを選ぶようにいった。というのは、肥後国の領主佐々成政は秀吉の怒りにふれて切腹させられ、讃岐の領主尾藤藤甚右衛門知定もまた秀吉の怒りを買い北条に逃げいずれも欠所になっていたからであった。尾藤知定は秀吉に仕え功を重ねて讃岐の領主となったが、九州征伐の折、秀長の軍に加わったものの、秀長にそむき軍を動かさなかったのが原因といわれている。
知定女婿の石田三成を頼ったが、三成が拒んだ為北条に逃げた。天正十八年、秀吉が北条を討伐した後、髪を剃って秀吉に降ったが許されず惨殺された。
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■加藤清正公のご紋「桔梗」
肥後半国を与えられたとき、清正公はまた二十七才。三千石の侍大将から、いきなり二十五万石の大大名になったので、武具や調度など足りるわけがない。そこで秀吉は、清正公肥後に赴任するに当たって、この尾藤の武具、調度一切を与えた。このときから、清正公は蛇の目。一重菊の加藤の紋と、尾藤の桔梗、折墨の紋を併用することになったといわれている。